研究背景

燃料電池や水の電気分解によるグリーン水素製造など、電極触媒は次世代のエネルギー変換に不可欠です。しかし、最も反応効率の高い電極触媒には白金やイリジウムなどの希少元素が使われています。このため、水素エネルギーを社会実装するためには貴金属使用量を減らすための代替材料開発が必要です。

現在、優れた材料を開発する上で量子化学計算(DFT)が盛んに活用されています。特に、触媒と反応基質の吸着エネルギーを計算することで、触媒反応がどの程度熱力学的に有利かを調べることができます。最近では機械学習や人工知能を活用することで、何百万もの候補から優れた材料を選定することが可能となりました。

このように、既存の触媒開発は熱力学をもとに材料の良し悪しを判定しています。これに対し、「反応がどれくらい速いか?」「材料がどれくらい長持するか?」など、触媒の最も重要な特性の多くは本質的に時間スケールに関わるものです。このような時間情報は、熱力学には含まれていません。数理触媒研究チームはこの乖離を解消し、より深く触媒反応・触媒材料を理解することで、優れた材料を発掘していきます。

量子化学計算による既存の触媒開発と速度論の関係性

研究の方向性

概要

本研究室で行っている研究内容の紹介。KMは速度論的反応機構(Kinetic Mechanismの略)。

  1. 触媒特性の予測に向けたモデル開発
  2. 電極触媒として重要な特性は電流密度の時間変化 j(t) で集約されます。電流密度が大きいほど高い活性を持つ材料になります。電流密度を維持できる時間は、触媒として機能する材料寿命そのものです。そして競合反応との選択性も、目的反応との部分電流密度の比較から定量的に評価できます。

    これらの触媒特性は、究極的には中間体、素反応、そして速度定数から決まる速度論的反応機構で決定されます。したがって、本研究では主要な触媒特性(活性・安定性・選択性)を速度論的反応機構から予測することに向けて、様々な反応機構ごとの電流密度の理論式を導出します。これまでの研究はすべて質量作用の法則に従うモデルを扱ってきましたが、最近ではより物理的なモデルを構築することで、溶出や剥離による触媒劣化を考慮しようとしています。

    代表論文: ChemSusChem 2025, JPCL 2024, JPCL 2019.

  3. 先端材料の開発
  4. 本研究では、実際に優れた触媒材料を開発します。このことにより直接次世代のエネルギー関連技術の開発に貢献するだけでなく、速度論的理解の重要性を世界に先駆けて示します。

    これまでの多くの基礎研究は小さな電流密度領域(mA/cm2オーダー)に注目してきました。このような平衡近傍の触媒特性なら、従来の熱力学で予測可能です。しかし、実学的に要求される反応速度は1000倍ほど大きいもの(A/cm2オーダー)であり、このような環境ではTafel Slope(電圧と反応の加速度の関係)など、速度論的な因子の影響が大きくなってきます。このように、実際に材料が活用される環境とこれまで材料が評価されてきた環境の乖離があります。しかも、実環境で優れた材料は必ずしも熱力学的に最適ではないことがこれまでの理論研究で分かってきています。よって速度論を指針とすることで、これまで見落とされてきた材料の再発見が可能だと期待されます。

    また、速度論解析により長寿命材料の開発を加速しようとしています。長寿命材料を実験だけで開発するのは大変です。一つの材料の寿命を評価するのに数週間から数か月単位の時間がかかります。さらに、優れた材料であればあるほど寿命が長く、試験時間も長くなります。これに対し、当研究室では分単位の測定から速度論的機構を同定するアルゴリズム(次項)を開発しようとしています。速度論的機構が確定すれば触媒寿命を含む、すべての特性の予測が可能となります。材料評価に必要な試験時間を大幅に短縮できれば、優れた材料の開発にも繋がります。

    代表論文: JPCL 2024.

  5. 速度定数の同定に向けたデータ解析アルゴリズムの開発
  6. これまでの触媒研究において速度論に焦点が当てられてこなかった大きな理由として、速度定数の評価が難しいことが挙げられます。量子化学計算など、既存技術で活性化障壁を計算した場合、少なくとも0.03 eVの誤差があります。これを室温速度定数に換算すると、約5倍もの誤差になってしまいます。速度定数の誤差は、反応速度や寿命の誤差に直結します。このため、速度論で触媒特性を予測するには速度定数を正確に求める技術が不可欠です。

    そこで本研究室では、実験データから速度定数を抽出するアルゴリズムを開発しています。これまで、水素発生反応のTafel Plotをフィッティングするための遺伝的アルゴリズムを開発してきました。最近では、酸素発生反応など、より複雑な反応を解析するためのアルゴリズムも開発しています。また、非定常な電気化学測定や時系列データ、in-situ分光のデータにも取り組んでいます。想定している反応機構が正しい場合、すべての実験データを再現しうる速度定数が存在するはずです。このため、本研究で開発する手法は速度定数の同定のみならず、反応機構の妥当性を評価する上でも役立ちます。

    代表論文: ACS Catalysis 2021.

コア技術

  1. 速度論解析
  2. 私たちは化学反応の反応機構を特定する独自のデータ解析手法を開発しています。また、数百から数万件のUV-Visや小角X線散乱(SAXS)データの解析実績があります。もし大量のデータをお持ちで解析に困っておられる方がいらっしゃれば、ぜひお声かけください。現在、触媒から得られたスペクトルのノイズ除去や自動フィッティングに関する共同研究を推進中です。

    代表論文: Nat. Commun. 2024, JPCL 2024, ACS Catalysis 2021.

  3. 光導波路分光法
  4. 当研究室の二つ目の強みは光導波路分光法です。イメージとしては、in-situ ATR UV-Visです。ATR IRのように表面高感度であり、入射角を変えることでサンプルの深さ方向の分析も可能です。スペクトルをミリ秒単位で取得できるため、電極触媒反応の解析に優れています。もし測りたいサンプルがあれば、ぜひご連絡ください。

    代表論文: JPCC 2017, PCCP 2016.

展望

人工触媒と酵素触媒の類似性

上で掲げた方向性はどれも電極触媒に関するものです。しかし、速度定数を求め、そこから特性を予測する手法は人工材料に限られるものではありません。特に、ミカエリス・メンテン型の反応機構を持つ酵素は一つしか中間体がないため、その速度式は水素発生反応など、電極触媒反応とほとんど同じ形になります。これを土台とし触媒反応の速度論を横展開し、基質と触媒の結合強度の指標となるミカエリス・メンテン定数(Km)が基質濃度と等しい時に酵素活性が最大となることを予測しました。さらに、約1000種類の野生型酵素を対象としたバイオインフォマティクス解析により、自然界でもKm = [S] (2023 Nat. Commun.)という法則が尊重されていることが示唆されました。国内外の実験家と積極的に連携しており、電極触媒でもそれ以外の系でも、共同研究を楽しみにしています。

代表論文: Nat. Commun. 2023, Angewandte 2024, Biosci. Biotechnol. Biochem. 2025.